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プロペラ日記 13:大丈夫か!?、、デザイン業界。

大変ご無沙汰しておりました。久々更新の「プロペラ日記」です!
大丈夫か!?、、なんて、デザイン業界を心配する前に、自分たちのことを心配しろ!と皆さまからツッコミを頂きそうですが、その通りでございます(笑)。

でも大丈夫。
音は無くとも、姿は見えずとも、トフワンはしつこくプロダクトの改善を続けております。実はもうすぐApple Watch に「watchOS 2」が配信される予定なのですが、それに合わせて「PROPELa のウォッチ対応版」をリリースいたします!期待して頂きたいそのニュースについては、また改めて。

さて今日は、、最近なんだか騒々しい、デザイン業界の騒動について。

特に新国立競技場のコンペ問題と、オリンピックのエンブレム問題が気になっています。僕は建築家なので、新国立競技場問題についても当然、物申したいこともあるのですが、、まずは、先日ついに使用中止に追い込まれた大会エンブレムの方から話を進めてみましょう。

ちなみに僕は、渦中の人、佐野研二郎さんと面識はありません。
そういう意味での擁護派ではないけれど、佐野さんを巡るネットや一部メディアによる粗捜しや集団ヒステリーのような吊し上げは見るに忍びないものがありました。もちろん、トートバッグの図案の件など、明らかにヤバいものがあったことは事実のようで同情はできませんが、ことエンブレムに関しては僕は盗用ではなかったと見ています。

そんなことで今回のプロペラは、いつもとちょっとトーンが違ってしまうかもしれませんが、同じ「ものつくり」に携わるものとして、どんなことを考えたか書いてみたいと思います。

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1. オリンピック エンブレム問題

まずデザインの概論として、幾何学的図形を用いる手法はあらゆるデザインの基礎の基礎であり、かつ、実践的な王道でもある、ということを押さえておきましょう。素人でも手法に乗って単純に真似ることが出来るし、同時に、ベテランが熟慮の上で辿り着く、洗練の高みであったりもするのです。

しかし、丸や三角や四角といった形には誰の著作権も発生しないように、ごく単純な図形の構成だけでオリジナリティを主張するのは至難の業です。そもそもデザインとは、既存の要素の組み合わせでしかないことを認識しておかなければなりません。シンプルであればあるほど、洗練を極めるほどに様式化されて、他の何かと似るのが必定。しかもその単純な形態でアルファベットを表現するのは常套手段なので、あえてそうしようとするならば、ベルギーの劇場のロゴやドイツの巨匠のタイポグラフィーの例だけでなく、似たようなものはこの他にもまだまだ沢山あるはずなのです。

これだけ情報が流通している現代、デザインでも音楽でも技術でも、もはや完全にオリジナルなものを生み出すことは不可能に近い、と思います。少なくとも、僕たちは「教育という模倣の上にしか創作出来ない」のです。世間では、クリエイターという言葉を気楽に使っていますが、元来「creator」は創造主である「神」を意味します。もちろん人間が神になれるはずもなく、自分を含め、ものつくりに携わる者こそ謙虚であるべきでしょう。そして、現代社会を生きるコンシューマー側としては、表面的類似性に惑わされないよう、創作の意図を汲み取る感性を備えられるといいと思います。似せた詩歌の奥にある趣向の違いを愉しんだ文化(本歌取り)を持つ日本人なら、きっとできるはずです。

さて、では創作の意図を汲み取ると何が見えてくるのか。佐野さんのシンボルマークと劇場のロゴを比較して、その成り立ちの違いを僕なりの推論で解説してみましょう。

今回、佐野さんが創作の過程で辿ったのはやはり、幾何学的図形を用いる構成主義の王道だったはず。画面を9分割し、大小の円と四角と、それらに切り取られた形<ネガ>を配置して、T(Team、Tomorrow、Tokyoの頭文字)を表現しています。
一方、類似が指摘されている劇場のロゴはアルファベットのTとLを重ねてひとつに図案化したもの。佐野さんのものと同じように見える左上と右下の形は、欧文書体を構成する要素(セリフやビーク)を切り取った形<ポジ>です。
ともに幾何学的図形の操作の基本に忠実でありながら、洗練されて力強いシンボル性を得ていますが、上記のプロセスの違い、エレメントのネガ/ポジの違い(黒/白という意味ではありません)、思想の違いが見て取れます。

これは、デザインの勉強をしたものであればそれほど難しい理屈ではありません。たとえ著作権法的に見ても、ベルギーの劇場のロゴに依拠せずに生まれ得たことは立証可能だったはずです。にも関わらず、ネットや一部メディアの「結果の視覚的類似性だけを捉えた批判」の勢いは凄まじいものがありました。

まあ、、彼の他の仕事に揚げ足を取られる格好の材料があり過ぎたので、ほぼ自爆認定ですが、ここでそのことには触れません。

ここで指摘しておきたいのは、
1、完全にオリジナルな創作というものはない。
2、問題の二つのデザインは、成り立ちが違う。
ということです。

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2. 「時間」を伴う価値。

前項で「洗練されて力強い」と言った佐野作品ですが、好きか嫌いかで言えば、、実は、好きじゃありません。はじめて佐野さんのエンブレムを画像で見たときに、正直、一秒で、つまらないなと思ってしまいました。精度はともかく、発想と構成が学生レベルに見えたのです。
でもその後、発表されたプレゼンテーションの動画を見て評価が変わります。

地球を表す大きな円を背景として、ごくベーシックな図形操作に始まりながら、それがいつしか概念操作へと移行していきます。そして、オリンピックのシンボルとパラリンピックのシンボルを切り離せない一対としつつ、最終的に、シンプルな色と構成によってある種の日本的な情緒を獲得する、、
動画では、その過程が魅力的に、見事に示されていました。

さらに佐野さんは、亀倉雄策さんの1964年の五輪エンブレムを下敷きにしたとも言っています。これはデザイン史に残る偉業とされる作品で、それ以上削ぎ落とすことのできない、まさに究極のデザインなのですが、動画を見てその意味するところも解りました。
亀倉さんの仕事が偉大すぎるので、比べてしまうと佐野さんのエンブレムが幼稚に見えちゃうのは置いておいても、そこから展開されたグラフィック的設計思想などは見えて来ます。
つまり、動画が語ることが今回の佐野作品の全体像なのです。僕はそれで納得しました。

アイキャッチ
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/13/Tokyo_1964_Summer_Olympics_logo.svg

サウンドロゴ、モーションロゴという言葉をご存知と思います。
テレビCMや動画配信の広告の中の2〜3秒を使って、企業やブランドを表象する「動くロゴマーク」と「印象的なサウンド」を 挿入してくる、アレです。日本でいち早く導入されたポピュラーな例を挙げれば、「It’s a SONY」とかになるのかな?もはや一般にもあたりまえに認知されているでしょう。

近年、動画に触れる環境自体も飛躍的に整備され、街の中でも、電車の車内でも、また各人のポケットの中や腕の上にでも、時間帯やシチュエーションを問わずコンテンツが届けられています。当然サウンドロゴやモーションロゴも、ますますその重要性を増しているのです。
米企業のシスコが今年5月に出したレポートでは、今後5年でインターネット全体のトラフィックのうちオンライン動画の割合が8割に達すると予測しています。 

そう。今や、ロゴやシンボルなどのイメージ伝達は「時間」を伴って行われるものだということです。
動画は静止画に比べて1000倍もの情報量を伝えるとも言われ、たとえ数秒でも、そのイメージの特色を、視聴者の心象に深く突き立てることができます。そしてこれは特別なことではなく、今や紙のポスターよりも身近になった、「表現媒体と僕らの接触のあり方」の現実なのです。

だから今、ロゴやエンブレムを論じるならば、動くことを前提にするべきですし、計画も、その短い時間の中でいかに物語や思想を表現し共感を得るかを熟慮すべきだし、批評も、その観点からなされるべきだと思うのです。

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3. 僕が佐野さんだったら…!?

大会組織委員会はエンブレムの選定理由の一つに「展開力」を挙げていました。このエンブレムを通して、東京オリンピックが表象するイメージを、様々な場面で、様々な媒体の上に表現できる可能性に対して展開力と言ったのだと思うけど、それは当然、モーションロゴとしての可能性も含んでいたはずです。

シスコ社の予測を見るまでもなく、2020年に向かって、動画の流通が激増するのは当然の流れ。それまでに、スマホやウォッチなどのデバイスだって、IoTだってどんどん進化します。トラフィックの8割という数字以上に、もっと身近に、しかもさりげなく溢れかえっているはずです。

試みに、、
上記のことを踏まえて、例えばもし僕が佐野さんだったら、どう主張し得たのか、というのを考えてみましょう。

もし僕が佐野さんだったら、時代認識を論じた上で、動画が「正」であって、静止画はそのある一瞬を切り取ったものだと説明します。(あの動画では長すぎるので、3〜6秒にまとめたバージョンを用意します。)
また、オリンピックのエンブレムを片側だけ単独で扱うのも「正」ではなく、パラリンピックのエンブレムと合わせて、厳密には二つの配置される距離も正確に定めた上で、二つ並べてようやく一つの大きなイベント「オリンピック・パラリンピック」を表象するシンボルになるのだと説明します。(ここでより重要なのはデザイン論ではなく、パラリンピックへの認識論です。)

そして、依頼主を含む世界中に向けて、その新しいエンブレムの扱い方を規定しましょう、と提案します。
いま、時代の流れ(特に情報との接点の変化)を考えるならば、2020年に向けて発表される大会のエンブレムは、これまでのものと一線を画す新しい在り方を提示しなければならない。これは、日本が世界に向けて時代の転換を象徴的に体現して見せるチャンスなのです!! 、、と熱弁を振るって理解を求めるだろうと思います。

そうしたならば、劇場のロゴとも、巨匠のタイポとも全く違う次元で語られるべきものになります。流れる水の一瞬の姿を捉えて水の形を定義しないように、静止した動画を批評することは出来ないのだから、もっと違う議論になったはず、、、なのだけど。

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4. 欲しい未来へ

僕らはみんな、情報やイメージとの接触のあり方の変化に気づいているはずです。でも、今回の騒動ではそんな、近い未来における情報流通の観点から論じられているものはほとんどありませんでした。

かつてデスクの上に鎮座していた情報は、持ち歩くものになり、身に着けるものになって、人の行動と溶け合うようになりました。IoTが進めば身近な環境のあらゆる部分と小さくコミュニケートするようにもなる。例えばまだApple WatchもFaceTimeさえもなかった5年前から見れば、今の環境は隔世の感があります。これから5年後、同様にまったく違う世の中になっているでしょう。

だからこそ、一人一人が今起きている変化にもっと自覚的になって、欲しい未来のために「いま」をジャッジすべきです。そしてやっぱり、デザイナーはその欲しい未来の提案者にならなければ。作り手も受け手も共に望む未来というものはどんな形をしているのか。素敵な未来(ヴィジョン)を描き、受け手に夢を抱かせる職能はまさに、デザイナーが担っているのだから。

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