カテゴリー別アーカイブ: 余談

mig

プロペラ日記 13:大丈夫か!?、、デザイン業界。

大変ご無沙汰しておりました。久々更新の「プロペラ日記」です!
大丈夫か!?、、なんて、デザイン業界を心配する前に、自分たちのことを心配しろ!と皆さまからツッコミを頂きそうですが、その通りでございます(笑)。

でも大丈夫。
音は無くとも、姿は見えずとも、トフワンはしつこくプロダクトの改善を続けております。実はもうすぐApple Watch に「watchOS 2」が配信される予定なのですが、それに合わせて「PROPELa のウォッチ対応版」をリリースいたします!期待して頂きたいそのニュースについては、また改めて。

さて今日は、、最近なんだか騒々しい、デザイン業界の騒動について。

特に新国立競技場のコンペ問題と、オリンピックのエンブレム問題が気になっています。僕は建築家なので、新国立競技場問題についても当然、物申したいこともあるのですが、、まずは、先日ついに使用中止に追い込まれた大会エンブレムの方から話を進めてみましょう。

ちなみに僕は、渦中の人、佐野研二郎さんと面識はありません。
そういう意味での擁護派ではないけれど、佐野さんを巡るネットや一部メディアによる粗捜しや集団ヒステリーのような吊し上げは見るに忍びないものがありました。もちろん、トートバッグの図案の件など、明らかにヤバいものがあったことは事実のようで同情はできませんが、ことエンブレムに関しては僕は盗用ではなかったと見ています。

そんなことで今回のプロペラは、いつもとちょっとトーンが違ってしまうかもしれませんが、同じ「ものつくり」に携わるものとして、どんなことを考えたか書いてみたいと思います。

.

1. オリンピック エンブレム問題

まずデザインの概論として、幾何学的図形を用いる手法はあらゆるデザインの基礎の基礎であり、かつ、実践的な王道でもある、ということを押さえておきましょう。素人でも手法に乗って単純に真似ることが出来るし、同時に、ベテランが熟慮の上で辿り着く、洗練の高みであったりもするのです。

しかし、丸や三角や四角といった形には誰の著作権も発生しないように、ごく単純な図形の構成だけでオリジナリティを主張するのは至難の業です。そもそもデザインとは、既存の要素の組み合わせでしかないことを認識しておかなければなりません。シンプルであればあるほど、洗練を極めるほどに様式化されて、他の何かと似るのが必定。しかもその単純な形態でアルファベットを表現するのは常套手段なので、あえてそうしようとするならば、ベルギーの劇場のロゴやドイツの巨匠のタイポグラフィーの例だけでなく、似たようなものはこの他にもまだまだ沢山あるはずなのです。

これだけ情報が流通している現代、デザインでも音楽でも技術でも、もはや完全にオリジナルなものを生み出すことは不可能に近い、と思います。少なくとも、僕たちは「教育という模倣の上にしか創作出来ない」のです。世間では、クリエイターという言葉を気楽に使っていますが、元来「creator」は創造主である「神」を意味します。もちろん人間が神になれるはずもなく、自分を含め、ものつくりに携わる者こそ謙虚であるべきでしょう。そして、現代社会を生きるコンシューマー側としては、表面的類似性に惑わされないよう、創作の意図を汲み取る感性を備えられるといいと思います。似せた詩歌の奥にある趣向の違いを愉しんだ文化(本歌取り)を持つ日本人なら、きっとできるはずです。

さて、では創作の意図を汲み取ると何が見えてくるのか。佐野さんのシンボルマークと劇場のロゴを比較して、その成り立ちの違いを僕なりの推論で解説してみましょう。

今回、佐野さんが創作の過程で辿ったのはやはり、幾何学的図形を用いる構成主義の王道だったはず。画面を9分割し、大小の円と四角と、それらに切り取られた形<ネガ>を配置して、T(Team、Tomorrow、Tokyoの頭文字)を表現しています。
一方、類似が指摘されている劇場のロゴはアルファベットのTとLを重ねてひとつに図案化したもの。佐野さんのものと同じように見える左上と右下の形は、欧文書体を構成する要素(セリフやビーク)を切り取った形<ポジ>です。
ともに幾何学的図形の操作の基本に忠実でありながら、洗練されて力強いシンボル性を得ていますが、上記のプロセスの違い、エレメントのネガ/ポジの違い(黒/白という意味ではありません)、思想の違いが見て取れます。

これは、デザインの勉強をしたものであればそれほど難しい理屈ではありません。たとえ著作権法的に見ても、ベルギーの劇場のロゴに依拠せずに生まれ得たことは立証可能だったはずです。にも関わらず、ネットや一部メディアの「結果の視覚的類似性だけを捉えた批判」の勢いは凄まじいものがありました。

まあ、、彼の他の仕事に揚げ足を取られる格好の材料があり過ぎたので、ほぼ自爆認定ですが、ここでそのことには触れません。

ここで指摘しておきたいのは、
1、完全にオリジナルな創作というものはない。
2、問題の二つのデザインは、成り立ちが違う。
ということです。

.

2. 「時間」を伴う価値。

前項で「洗練されて力強い」と言った佐野作品ですが、好きか嫌いかで言えば、、実は、好きじゃありません。はじめて佐野さんのエンブレムを画像で見たときに、正直、一秒で、つまらないなと思ってしまいました。精度はともかく、発想と構成が学生レベルに見えたのです。
でもその後、発表されたプレゼンテーションの動画を見て評価が変わります。

地球を表す大きな円を背景として、ごくベーシックな図形操作に始まりながら、それがいつしか概念操作へと移行していきます。そして、オリンピックのシンボルとパラリンピックのシンボルを切り離せない一対としつつ、最終的に、シンプルな色と構成によってある種の日本的な情緒を獲得する、、
動画では、その過程が魅力的に、見事に示されていました。

さらに佐野さんは、亀倉雄策さんの1964年の五輪エンブレムを下敷きにしたとも言っています。これはデザイン史に残る偉業とされる作品で、それ以上削ぎ落とすことのできない、まさに究極のデザインなのですが、動画を見てその意味するところも解りました。
亀倉さんの仕事が偉大すぎるので、比べてしまうと佐野さんのエンブレムが幼稚に見えちゃうのは置いておいても、そこから展開されたグラフィック的設計思想などは見えて来ます。
つまり、動画が語ることが今回の佐野作品の全体像なのです。僕はそれで納得しました。

アイキャッチ
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/13/Tokyo_1964_Summer_Olympics_logo.svg

サウンドロゴ、モーションロゴという言葉をご存知と思います。
テレビCMや動画配信の広告の中の2〜3秒を使って、企業やブランドを表象する「動くロゴマーク」と「印象的なサウンド」を 挿入してくる、アレです。日本でいち早く導入されたポピュラーな例を挙げれば、「It’s a SONY」とかになるのかな?もはや一般にもあたりまえに認知されているでしょう。

近年、動画に触れる環境自体も飛躍的に整備され、街の中でも、電車の車内でも、また各人のポケットの中や腕の上にでも、時間帯やシチュエーションを問わずコンテンツが届けられています。当然サウンドロゴやモーションロゴも、ますますその重要性を増しているのです。
米企業のシスコが今年5月に出したレポートでは、今後5年でインターネット全体のトラフィックのうちオンライン動画の割合が8割に達すると予測しています。 

そう。今や、ロゴやシンボルなどのイメージ伝達は「時間」を伴って行われるものだということです。
動画は静止画に比べて1000倍もの情報量を伝えるとも言われ、たとえ数秒でも、そのイメージの特色を、視聴者の心象に深く突き立てることができます。そしてこれは特別なことではなく、今や紙のポスターよりも身近になった、「表現媒体と僕らの接触のあり方」の現実なのです。

だから今、ロゴやエンブレムを論じるならば、動くことを前提にするべきですし、計画も、その短い時間の中でいかに物語や思想を表現し共感を得るかを熟慮すべきだし、批評も、その観点からなされるべきだと思うのです。

.

3. 僕が佐野さんだったら…!?

大会組織委員会はエンブレムの選定理由の一つに「展開力」を挙げていました。このエンブレムを通して、東京オリンピックが表象するイメージを、様々な場面で、様々な媒体の上に表現できる可能性に対して展開力と言ったのだと思うけど、それは当然、モーションロゴとしての可能性も含んでいたはずです。

シスコ社の予測を見るまでもなく、2020年に向かって、動画の流通が激増するのは当然の流れ。それまでに、スマホやウォッチなどのデバイスだって、IoTだってどんどん進化します。トラフィックの8割という数字以上に、もっと身近に、しかもさりげなく溢れかえっているはずです。

試みに、、
上記のことを踏まえて、例えばもし僕が佐野さんだったら、どう主張し得たのか、というのを考えてみましょう。

もし僕が佐野さんだったら、時代認識を論じた上で、動画が「正」であって、静止画はそのある一瞬を切り取ったものだと説明します。(あの動画では長すぎるので、3〜6秒にまとめたバージョンを用意します。)
また、オリンピックのエンブレムを片側だけ単独で扱うのも「正」ではなく、パラリンピックのエンブレムと合わせて、厳密には二つの配置される距離も正確に定めた上で、二つ並べてようやく一つの大きなイベント「オリンピック・パラリンピック」を表象するシンボルになるのだと説明します。(ここでより重要なのはデザイン論ではなく、パラリンピックへの認識論です。)

そして、依頼主を含む世界中に向けて、その新しいエンブレムの扱い方を規定しましょう、と提案します。
いま、時代の流れ(特に情報との接点の変化)を考えるならば、2020年に向けて発表される大会のエンブレムは、これまでのものと一線を画す新しい在り方を提示しなければならない。これは、日本が世界に向けて時代の転換を象徴的に体現して見せるチャンスなのです!! 、、と熱弁を振るって理解を求めるだろうと思います。

そうしたならば、劇場のロゴとも、巨匠のタイポとも全く違う次元で語られるべきものになります。流れる水の一瞬の姿を捉えて水の形を定義しないように、静止した動画を批評することは出来ないのだから、もっと違う議論になったはず、、、なのだけど。

.

4. 欲しい未来へ

僕らはみんな、情報やイメージとの接触のあり方の変化に気づいているはずです。でも、今回の騒動ではそんな、近い未来における情報流通の観点から論じられているものはほとんどありませんでした。

かつてデスクの上に鎮座していた情報は、持ち歩くものになり、身に着けるものになって、人の行動と溶け合うようになりました。IoTが進めば身近な環境のあらゆる部分と小さくコミュニケートするようにもなる。例えばまだApple WatchもFaceTimeさえもなかった5年前から見れば、今の環境は隔世の感があります。これから5年後、同様にまったく違う世の中になっているでしょう。

だからこそ、一人一人が今起きている変化にもっと自覚的になって、欲しい未来のために「いま」をジャッジすべきです。そしてやっぱり、デザイナーはその欲しい未来の提案者にならなければ。作り手も受け手も共に望む未来というものはどんな形をしているのか。素敵な未来(ヴィジョン)を描き、受け手に夢を抱かせる職能はまさに、デザイナーが担っているのだから。

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr

プロペラ日記 12:WATCH にまつわるエトセトラ。

Apple Watch がついに発売になりました!
Facebook や Twitter などからの報告も続々。世の中、盛り上がっていますよね。
僕たちの PROPELa も早速 Watch 対応を整えて、AppStore にサブミットします。上手くいけば10日間後くらいには、みなさまのお手元にお届けできるようになる予定。

使ってみると、、Apple Watch って、PROPELa のためのハードとして作られたんだっけ?
と不遜な冗談を言いたくなるくらい、想像以上に相性抜群!いずれ Apple おすすめアプリとして取り上げられたり、Watch の標準機能に組み込まれたり、、なんて夢想してます。笑
Apple Watch を手にされた皆さんは、是非是非、試してみてください!

.

watch の誕生は、clockから?

ということで、今日は”watch”にまつわるお話しを。
時計を表す英単語には、なぜ watch と clock があるのか。小学生のころ英語を勉強し始めて感じた素朴な疑問です。

watch は腕時計、clock は置時計などと、その用法の違いも教わりましたが、でもなぜ、それぞれをそう呼ぶのかということについては教わらなかったし、せっかく疑問に感じたのに、その時は自ら詳しく調べたりもしませんでした。

僕の場合、その後、建築を勉強するようになって、思いがけずその疑問を思い出すことになります。
キリスト教の教会堂には礼拝の時を告げる施設として鐘楼が付いていますが、それをドイツ語では Glockenturm、フランス語では Clocher と呼ぶのだそうです。
何かの発音と音が似ていますね。そう、clock です。
そこで例によって語源を辿ってみると、clock の語源は中世ラテン語で、やはり「鐘」を意味する cloccam(クロッカム)という言葉で、ドイツ語やフランス語にその名残があることを知ります。

鐘楼ですから建築です。少なくとも建築の一部を成す大型の機械設備でありました。時計塔というと、僕たちは文字盤がついているものをイメージしますが、当時、より重要なのは「鐘の音」であって、文字盤のない打鐘装置だけのものも沢山ありました。

時代が下り、今ではもう骨董屋に行かなければ見られなくなってしまいましたが、日本では昭和の半ばころまで、家庭に置き時計があるのは珍しいことではありませんでした。例の有名な唱歌「大きなノッポの古時計」式の、黒光りするような木製のものが多かったと思います。振り子が揺れていて、ボーンボーンと音のなるそれらのほとんどは、そういえば中世の建物のような仰々しい形をしていました。それは、小型化した鐘楼だったからなのです。

では、watch はどうでしょう。watch で表す時計は、腕時計と懐中時計です。
英語で watch といえば、もちろん「見る」という意味がありますが、なぜ同じ時計なのに呼び方が違うのでしょうか。
その理由には諸説あるようだけれど、僕はこの説を推したい。
最初は大きな機械を内蔵した建築だった clock が、技術の進歩とともに小型化し、部屋の中に入って置き時計になり、掛け時計になり、さらに小型化して、、ついに懐中時計や腕時計のようなウェアラブルデバイスとなった。その時、そこに人間との関係における劇的な意味の転換が起きたのだと思うのです。

つまり、鐘楼や置き時計の時代には人は音で時を知ったのだ。けれど、この画期的なウェアラブルデバイスの登場以降は、目で見て時を知るようになった。時間というものが、「場所に紐付いて(間欠的に)耳で聞く存在」から、「行為に伴って(いつでも)目に見える存在」へと変化したのです。

それは現代の僕たちが Apple Watch によって受ける衝撃に近いかもしれません。その感動が watch という呼び名を生み出したのではないでしょうか。

時計塔
出典:http://bandainamcoent.co.jp/
.

土圭から時計へ。

話は少し変わりますが、、僕たちTofuONEの応援団の一人の方から「風流時圭男」というご本を頂いたことがあります。この本は、それこそ clock から watch が誕生し普及していくころ、それをいち早く日本に紹介したある企業の創設者一族の物語。実在の人物をモデルとして描き起こされた小説なのだけれど、タイトルの「時圭」という見慣れない表記が気になっていたら、「あとがき」に「時圭とは時計の旧表記」 ということが書かれていました。

さらに調べると、言葉が移入された当時の表記は「土圭(どけい)」といって、中国周代のころ、方角や日影を測る計測器のことだったらしい。「平安時代に日本に伝えられ、機械時計の無かった時代は、「日時計」の意味として「土圭」が用いられていた(語源由来辞典)」ようです。ちなみに「圭」という文字は先端が尖った短冊状のものを表象するから、土に細い影を映す日時計の文字として納得できます。

その後、現在の「時計」になる過程は実はよくわかっていないらしいのですが、機械式時計が発明されて、中国では「自鳴鐘」という呼び方が生まれました。やはり音にフォーカスした名前です。一方日本では、音より時間そのもの、もしくは計測すること自体に関心が向いたためか「ときはかり」とも呼ばれ、当て字として「時計」が定着したようです。元々の文字からの展開を考えると、これは言い得て妙の、本当に上手い当て字だと感心します。

.

そして、Apple Watch。

Apple Watch も発売されて、未来を見渡す現在。
時を計り「いま」がどの地点にあるのか24(もしくは12)時間の中で相対的に示すのが「時計」だとすれば、PROPELa で僕たちは、次の予定までの時間を示す新しい「時(間)計」を作っています。

残り時間を示すといってもカウントダウンのように<急かすため>ものではありません。次の予定に移動が伴うならその移動分も含めて、どのくらいの余裕があるのかを把握することで<安心するため>のものでありたい。その安心が「いま」に専念することを助け、「いま」の価値を高めるものとなるはず、と思うからです。

Apple Watch はまさに「いま」を拡張するデバイス。
しかしその大きさや操作性の制約から、その中で機能するアプリケーションには、その刹那に必要なことだけを取り出せる「研ぎ澄まされたシンプルさ」が求められます。
PROPELa はその観点から、このデバイスに最適と思える回答を用意しました。

リリースまでもうちょっと。楽しみにお待ち下さい!

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr

プロペラ日記 10:メディア、メディウム、導かれた出会い。

我が家にはテレビがありません。
だから久しく番組も見ていなかったのだけど、先日、実家に帰った折に、久しぶりに見てみました。もはや過去のメディアなどとも言われるけど、やっぱりテレビって面白い!!

特に刺激的だったのは「100分de日本人論」というEテレの特番。皆さんの中にもこの番組をご覧になった方がいるかも知れませんね?人類学者の中沢新一さんら4人の論客の中で、議論の中心に座っていらしたのは松岡正剛先生。希代の編集家であり、編集工学という実学を打ち立てた博覧強記の偉人です。

今日の話題は、その松岡先生から始まる不思議なご縁、出会いのおハナシ。
.

メディアとしての本棚。

ジョブスの iPhone 発表よりもさらに少し前、僕は松岡先生と、あるお仕事をご一緒していました。
それは、今や先生の代表的仕事となっている「千夜千冊」というプロジェクトのために「書棚」を考案するというものでした。千夜千冊は、松岡先生が古今東西・諸学諸芸の本を巡って記し続けている前代未聞の書評集。その「途方もないプロジェクト」のための「特別な書棚」の考案が求められていました。
.

書物は万余の考想を刻印し、書架は胸中の全景を提示する。
書物と書架というもの、モダンデザインとモダンリビングの波及の中で、あまりにも看過されてきた。しかし、アリストテレス文庫から五山文庫まで、王羲之の文房書斎からオノレ・バルザックの書房に至まで、そこにはそれぞれの時空があったのである。—————松岡正剛(「千夜千冊・結」発足案内より抜粋)

.
どうですか?例えばあなたがデザイナーだったなら、松岡先生にどんな本棚を提案しますか?

当時の僕にとってもこれは超難題でした。先生との何ヶ月にも渡る議論や試作を経て、僕は、書物と同じように棚も世界観を表出するメディアだと考えるに至ります。

提案した構造と仕組みは、先生の選書と配架によって「ある時空」の表象を可能にするものです。それぞれの棚が個として独立しつつも無限に自在に組み合わせられるシステムとしました。それは、単に思考の軌跡を枝状の繋がりや展開で類比、再現するということを越えて、知を抱いた棚自身が相互に作用し得る幾重ものうねりをつくり出し、広場や、路地や、塔や、回廊のような都市的様相を呈しつつ世界を再構築するような、、そしてそこに新たな関係性を取り結び、新たな思考を誘引するような、、、

なんて、この書棚について語り始めると、また別冊の日記が出来てしまうのでここでは止めておきます(笑)。

そうそう、ちょっと古いですが、その書棚のコンセプトを表現した動画を発掘しました。
これを見てもらうほうが、どんなものであるか想像しやすいかも知れません。

.

天に導かれた出会い。

そもそも。
この貴重な仕事を僕に紹介してくれたのは、人と人を繋げることを生き甲斐とする、それこそメディウムを地で行く仙人のようなお爺さま。お爺は、実は千夜千冊に専用の書棚を作ることを最初に発案したプロデューサーで、僕は助っ人建築家として「(彼の企画書の中で伽藍と呼ばれていた)書棚」建立のお手伝いのため、声をかけて頂いたのでした。

お爺には何人もの優秀なブレーンがいました。その「とっておき」として紹介してくれたのが、デザイナーの掬矢吉水さんでした。ちょっと捻った漢字だけど、これでキクヤヨシミと読みます。

彼は飛び抜けて優れたデザイナーで、「千夜千冊」においては、そのウェブサイトの枠組み/仕組みを設計。この時に構築されたフレームワークが、その後のウェブの世界における情報掲示法のひとつのアーキタイプとなるわけですが、その立役者です。そしてまた、その発表当時に赤ちゃん用の神アプリと称された「BabyTap」の作者でもあります。グラフィックデザイナーの枠に納まらない才能。情報に関する専門領域の集合を設計するスペシャリスト、第一級の「情報建築家」です。僕のような空間を扱う建築家なら何万人もいるけど、彼のように情報建築家を名乗れる人間は日本にはまだ数えられる程度しかいません。

実は、、後に掬谷は、TofuONEの共同設立者となります。出会いの切っ掛けは千夜千冊だったわけです。恩人であるお爺は僕らを繋げて間もなく他界されてしまったから、今思うと、この縁は天に導かれた幸運だった様に思えます。書棚の構想とは別に進めていた僕自身の時間のプロジェクトも、彼と出会ったことで進む方向が開け、そして、丁度タイミングを合わせるように、前回のPROPELa日記の事件(iPhoneの登場)があったのでした。

iPhoneの衝撃、そして掬矢吉水との出会い。これを機に、僕たちの選択肢に「アプリ」が急浮上。紙のカレンダーの企画は、一気に、仮想空間に展開する時間のプラットフォームへと広がって行きました。個人の小さな想いが、人を巻込みまがら、宇宙のリズムさえ呑み込む壮大な企画に発展して行く過程も、もしかしたら天国のお爺のタクラミの内だったのかも知れません。

.

人と人との出会い、繋がりは、本当に不思議ですね。偶然の連続のようで、必然であったりする。
いま僕たちが「PROPELa」を始めたことは、出会うべき人に出会い、出会うべき教えに接し、その時どきで判断/選択をしてきたからこそ。どこかでひとつでも違っていれば、そもそも僕は今の僕ではないし、あなたもここでこれを読むことはなかったでしょう。
僕にとっても、あなたにとっても、過去の出来事の全てが「いまココ」をつくる必然となっているということです。ちょっとインド哲学的ですが、すべてのものの存在は、孤立せずに関係性の中に在り、例えば実際に未来のある地点からそれまでを振り返って見たとすると、今起きている全てのことは、起こるべくして起きていると。縁という関係の連続。お爺が大好きだった言葉、まさにこれが「縁起」ということでしょうね。

過去は歴史のもの、未来は未知のもの、現在は贈りもの(だからpresent)だそうです。
過去にも未来にも直接触れることは出来ない。だから唯一確かな「いまココ」で、自分が出来ることに懸命に取り組むことが大切だと、改めて思うのです。いまもこうして天から頂き続けている「贈りもの」に感謝を持って。

sanka
出典:http://www.soylabo.net/works/furniture/sanka/sanka01.JPG

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr

プロペラ日記 09:衝撃の遭遇から身体の一部になるまで

1月といえば、思い出されるもうひとつのエピソードがあります。今から丁度8年前に起こった、あの衝撃的な事件のこと。時間の流れの速いITの業界で8年は大昔ですから、もう、忘却の彼方かもしれませんが。

新しいカレンダーを考案しようとして、紙と格闘していた僕にとっては、まさに、未知との遭遇。
でも、僕だけじゃなく、世界中が衝撃を受けたはずです。
人の意識や生活をこんなにも変えてしまった。今ではすっかり日常の、当たり前の存在。まるで、息をするように自然な行為となりましたね、、、

そう、iPhoneの登場です。

.

歴史が動いた瞬間。

iPhoneは8年前の今日、2007年1月9日(米時間)、サンフランシスコのモスコーン・ウェストで開催されたMacworld Conference & Expoで、スティーブ・ジョブズによって初めて公に発表されました。

この時の「電話を再発明する」というジョブスの台詞はとても有名ですが、実際、まるでモノリスのようなフラットなガラスのサーフェイスに、「タッチスクリーンのiPod」「革命的携帯電話」「インターネットコミュニケータ」を統合したという、驚愕の新デバイスでした。

そしてなにより、最も僕がインスパイアされたのは、その操作方法。タップ、スワイプ、ピンチイン、ピンチアウト。当時は、それだけでまるで魔法のようでした。

時間のカタチをイメージして試行錯誤を続けながら、その操り方を考えあぐねていた僕にとって、それはまさに、雷に打たれたような衝撃だったのです。
プロペラ日記 06でも書きましたが、時間の性質を表記する道具があるとしたら、それが備えるべき特徴は大きく4つあるんじゃないかと、当時、僕は考えていました。
.

1、シームレスに繋がる。
  今日と明日、今週と来週、今月と来月、今年と来年の間が継ぎ目無く繋がっている。

2、伸縮自在である。
  12時間にフォーカスすることも、一年を計画することも、千年を俯瞰することも出来る。

3、地球の運動とリンクする。
  人間が地上で感得する時間は、宇宙の中での地球の動き、月との関係とリンクする。

4、レイヤーを持つ。
  過去から未来へ一方向にフローするも、モード別に輻輳する幾つものレイヤーを持てる。

.
iPhoneに出会い、その操作方法を学んだ時、僕がイメージしていた時間のカタチ、この4つの条件を備えたものがついに実現出来る!と確信したのです。

無限に繋がる平面も、歴史的な俯瞰も、瞬間への潜行も、GPSもUPSも、幾重もの輻輳も、、
紙の上で試行錯誤してはぶち当たり、どうしても突破出来なかった物理的限界を、フラットなガラスの向こうで、そいつは、易々とクリア出来るだろうことを示唆していました。

moon phase
出典:http://imgkid.com/moon-phases.shtml
.

「いま」を刹那的に消費しないために

だけど、、、これらは結局、今回の PROPELa には機能として組み入れることはしませんでした。

何故でしょう?
実現することは不可能ではなかったはずですが、この8年の間にもっと大切にしたいことを見つけたからです。

それは、魔法的存在だったiPhoneが、日常の道具、もっといえば身体の一部のようになって行く過程と同期しているかもしれません。僕たちも、多くのユーザーにとってより身近な「時間と空間」に寄り添う決意をしたのです。

世界は「時間と空間」という二つの分かち難いもので出来ています。瞬間移動の出来ない僕たちにとって「移動」はまさに、時空間で出来た世界との接触を示しています
だから、時間の本質を、イメージ上のその「カタチ」から取り出すことよりも、「移動」に着目して、実空間との関係性から取り出すことにしたというわけです。

Google Nowに象徴されるように、これからの世界は、もっとNowに集約されていくでしょう。やっぱり、過去よりも未来よりも「いま」は特別なんです。
だけど僕たちは、大切な「いま」を刹那的に消費しないためにもNowの意味を少し拡げて、その先に繋げたいと思っています。面白いもので、「移動」を考えると、時間的にも空間的にも「いま」が延びている状態がイメージできます。

「移動」というシチュエーションにおいてこそ身体の現在性が問われますが、それをアシストする画期的なモバイルデバイスが、iPhone やそれに続くスマホたちです。スマホはもはや身体の一部。目や耳や口の延長であり、脳の拡張であり、もうひとつの皮膚です
もうすぐの発売が噂されている AppleWatch なら、なおさら。

「いま」が連続する生活の中で、 何処にいても「あなた」に寄り添うものとして、情報は行動(身体)と同化していくでしょう。
PROPELa もそうありたいし、さらにそこに、魔法を取り戻したいとも思います。

.

でも、いつか、、挑戦しますよ。
時間のカタチ、上記の4条件を備えたカレンダーづくりにも。
やりたいことが沢山あって、大変なんだけど。(笑)

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr

プロペラ日記 06:「時間」にカタチはありますか?

行動アシストアプリ「PROPELa」のリリースまで、ついにあと4日となりました!
いよいよ開発も最終段階。「審査」突入です。

アプリをapp storeで販売/配布するためには、公開前に審査があります。
Apple の Developer サイトには、アプリケーション審査に関して次のような説明が。

審査プロセスの目的は、App Store や Mac App Storeで公開される
アプリケーションが信頼できるものであり、期待どおりに動作することと、
露骨または不快な表現が含まれていないことを確認することです。

販売するのに相応しいものであるか、技術、コンテンツ、設計の基準に従って審査を受け、
通過する必要があるのです。

僕たちも、3日前にその審査申請に滑り込みで提出。
審査に掛かる平均時間(日数)からすると、実はギリギリのタイミングでした。
リジェクトされないよう作り込んだつもりなので、あとは委ねるしかありません。
ティザーサイトのカウントダウン通りに行きますように、、
いま、僕たちチームも祈るような気持ちでいます。

.

さて。

前回は「空間」から「時間」への興味の拡大について触れました。
今回は、果たして僕たちはその時間の正体というものに迫れるのか、という、おハナシ。

.

時間のカタチを取り出す! 

もう随分前の話になりますが、「人にとって時間とは何か」ということを理解するために、
僕は、時間の「姿」なるものを想像しようとしていました。

建築家的なアプローチかも知れませんが、
僕にとっては、モノゴトへの理解と、スガタカタチの構造的な理解はほぼ同じことです。
なので、時間というものに、もし納得のいく姿を与えることが出来れば、
それはそいつの理解にも一歩近づくことになるのではないかと思ったのです。

けれど、相手は「時間」です。
抽象的な概念はあるものの、具体的な形があるわけではありません。これがなかなか難しい。

例えば時計は、その抽象概念の一部を上手く物体に落とした例ですね。
何が素晴らしいかと言えば、あの、回転運動の発明です。
あれは最小の仕掛けで無限を表現しています。
始点も終点もなくずっとグルグル廻り続けるわけです。

でも、あれが時間の形だというのなら、それは乱暴過ぎると思うのです。
だいたい、12時間で1回転というのは地球のサイクルから見て身勝手な設定だし、
12時間よりも長い時間、例えば一週間や一ヶ月という単位、季節、あるいは歴史を
そのコンディションとして映すことも出来ない。
そう言えばMoon Phaseが見える腕時計なんかはあるけど、殆ど装飾の域に留まっています…

別のカタチ。
例えばカレンダーは、プロペラ日記03で触れたように月の単位が基本だとしても、
ひと月ごとに紙をめくるもの、一年をポスター状に一枚で一覧させるもの、いろいろある。
現行のグレゴリオ暦ばかりでなく、旧暦で月の周期に寄り添おうとするものもあるけれど、
何れにしても月を基準に時間を把握すると、今度は1日の時間経過へのフォーカスが難しい。

人間の活動は、1時間、1日、1週間、、という風に基準となるあるリズムを必要としていて、
そのリズムの中の時間的領域を制御するため、スケジューラーと呼ばれるものが登場する。
そこには様々なニーズに対応した工夫がされて、一日の活動を18時間もしくは24時間で
記録出来るもの、見開きで1週間、2週間のヴューなど短くセグメントするものから、
逆に一年の全ての日を一直線上に並べた上で、つづら折りに畳んだようなものまであります。

螺旋時計
参照:http://bigsounds.tumblr.com/post/15574352112/i-have-patience-she-said-sure-he-replied

限りなく普遍的で、限りなく主観的なもの。

確かにそれぞれよく考えられいて素晴らしいのだけど、僕の考える時間のカタチとは全然違う。
型に押し込めた時間ではなくて、実感としての時間の性質を出来るだけ再現したかった。
限りなく普遍的な存在でありながら、同時に限りなく主観的に変質するもの、、
当時、僕の考えていた時間の性質を言葉にしてみると、下記の4つの大きな特徴があります。

  • 1、シームレスに繋がる。
      今日と明日、今週と来週、今月と来月、今年と来年の間が継ぎ目無く繋がっている。

  • 2、伸縮自在である。
      12時間にフォーカスすること、一年を計画すること、千年を俯瞰することも出来る。

  • 3、地球の運動とリンクする。
      人間が地上で感得する時間は、宇宙の中での地球の動き、太陽と月との関係とリンク。

  • 4、レイヤーを持つ。
      過去から未来へ一方向にフローするも、モード別に輻輳する幾つものレイヤーを持つ。

言葉上で定義をして、そのカタチを探る。試行錯誤が始まりました。
まず、手許にある紙を折り畳んで、自分用のカレンダーをつくり始めます。いや、、
カレンダーであり、スケジューラーであり、時計であり、年表でもあるような時間の記述法、
まだ世の中に存在しない時間の具象化の方法を発見しようとしました。
これまでの歴史で人類がまだ試していないノーテイションがあるかも知れない。
微かな希望にすがって、僕はひたすら、紙を折ったり、丸めたり、刻んだり、繋いだり、、
とにかく試していたのです。

けれど、今思えば、その手法は始めから無理を含んでいました。
だって、時間という無限を、紙面という有限の上に乗せようとしていたのですから。

完全に袋小路に入ってしまったと思われた、このあと、、
2つの大きな出来事によって、プロジェクトは転機を迎えます。

次回は僕にとってだけでなく、世界中が衝撃を受けた「あの事件」のことと、
天の導きによる出会いについてお話ししますね。

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr

プロペラ日記 05:イメージを現実にする技術とモチベーション

人にはモチベーションが必要です。
何か新しいコトを始める時、例えばスタートアップへの挑戦にあっては、特に。

だから、
なぜそのコトに挑み、何を実現したいのか。
そこにはどんな意味があって、だれのどんな欲望を満たすのか。それを明確にした方がいい

リスクを冒してでも前に進もうとするのが起業というものだと思うのだけど、
具体的に動き始めれば当然、いくつもの困難に直面するわけです。
そんな時にも強い動機付け(モチベーション)があれば、エンジンは止まらない。
向かい風にプロペラを廻し続けることが出来ます。
起業にとって起業家がエンジンだとすれば、モチベーションはさしずめ燃料と言ったところかな。

今回は、PROPELaにもインスピレーションを与えてくれている尊敬すべき先達のエピソードから
イメージを現実にする技術とモチベーションにまつわる話をしてみましょう。 

.

ヒトが空を飛んだ日。

20世紀初頭。
誰もが無理だと言っていた「夢のようなこと」に、諦めず挑み続けていた男たちがいた。
その夢は彼らだけのものではなく、まさに「人類の夢」でした。
有史以来、人間がずぅーっと抱き続けて来た大きな憧れ。男も女も、老人も子供も、
そしてきっと現代人であるあなたでさえ、空を見上げて思ったことがあるはずです。

「鳥になりたい、、大空を自由に飛び回れる翼が欲しい」って。

当時、その夢を愚直に追い続けていた彼らの挑戦には、強い逆風が吹いていました。
「機械で空を飛ぶ」という構想に対して、
世間は根拠無く、無理だ、出来っこない。と決めつけたようです。それだけでなく、
メディアをはじめ、軍も、大学も、数学や天文学その他一流の科学者たちまでもがこぞって
機械が空を飛ぶことは、科学的に不可能。」と断じていた時代だったのです。

それでも彼らは諦めません。世間の逆風さえも揚力に変える、不屈の挑戦を続けた二人の男。
自転車屋を経営しながら地道な研究と実験を重ねていた彼らこそ、ご存知、ライト兄弟です。
彼らの挑戦を支えたモチベーションは、「空を飛びたい」というシンプルな欲望でした
そして今から111年前の12月、ついに実験は成功します。
 
.

ロープを解き放すとマシーンは滑走を始め、11km/hから13km/hくらいまでスピードを上げた。
マシーンは4番目のレールにさしかかったところで宙に浮いた。
ダニエルは、まさにレールを離れる瞬間をカメラに捕らえた。
前方の昇降舵が重心に近いために過敏な反応を示し、上下運動を制御するのが非常に困難だった。
マシーンは10フィートくらい上昇したかと思うと、今度は地面に向かって急降下した。
レールの終端から100フィートくらいのところで突然地面にたたきつけられた。
飛行時間12秒。

ー 1903年12月17日、オービル・ライト手記より ー

.

人類初の、プロペラとエンジンを使った動力飛行の瞬間でした。観客はたったの5人。
それでもしばらく、世間は実験成功を信用しようとせず、実はこの後二人は大変な苦労をします。
けれど、この日を境に時代は大きく旋回し、航空機の爆発的発達の時代に入って行きます。

ついに「人類の夢」を叶えた二人。
彼らの、イメージを現実にした力は、実現するまで挑戦を止めなかったこと。
「空を飛びたい」という、シンプルだけれど強いモチベーション が、世界を変えたのです。

初飛行
出典:http://www.wetwing.com/wright/machines/machinefoto/1903flyer.jpg

.

イメージを現実にする技術。

ところで、このブログの筆者の一人である僕(ヤマナカユウイチロウ)は、
既にバレているかも知れませんが、、、いわゆるIT業界の人間ではありません。
専門は建築設計/デザイン。S.O.Y. LABO.という屋号で活動する「建築家」です。

建築とITの関係は、今ではいろんな場面で語られ、また実践もされていますが、
僕は、そのような建築の情報技術の文脈からこの業界にアプローチして来たわけではなく、
むしろ、実はベクトルとしては全然違う方向を向いてきました。

いま、建築の設計作業はみんなCADになったし、CGでのプレゼンも普通になりました。
そしてもはや次の変化としてBIM(Building Information Modeling)への移行も加速しています。

でも、様々なシュミレーション技術が進み、鉄骨やコンクリでビルがいくら高層化しても、
本質は、竹の骨に土を盛っていた昔からあまり変わっていない。
基本的には人の手でひとつひとつ材料を組み上げていく、超プリミティヴな世界です。

僕だってもちろんCADは使うし、テクノロジーに無関心ではいられないけど
設計や施工の表舞台で起きている進化/イノヴェーションよりも、
建築のアナログさ、そのプリミティヴな原理にどうしようもなく惹かれてしまいます。

大地を拠り所にする生い立ち。携わる大勢の人間の好意の積み重なり。
自然の素材、職人の技、肌触り、匂い。そういう定量化出来ないもののヴァイブスを感じるし、
また、その共振がなければ再現出来ない空間の質というものが確かにあるのです。
 
僕はすでに20年、建築のそんな世界にどっぷりと浸かって来ました。
お陰で頭の中で想起した空間は、光の反射に至るまで、ほぼそのように作れるようになった。
いつしか日常のことになっていて自覚してなかったけど、考えてみればエラいことです。
実体として何も存在していない単なるイメージだったものが、ある時、実空間に出現して、
例えば、そこに人が住めてしまうなんて。

それは、イメージを現実にする技術。
イメージを現実にするといっても、晩ごはんの新しいメニューを思いついて作ってみるという
個人で実現可能なものから、多くの他人を巻込まないと実現出来ないことまでいろいろあるけれど
よりシビアにこの技術を身に付けるなら巻込む人は多ければ多いほどいい。

そう考えると建築は、これを鍛えるのにうってつけの職業だったかもしれない。
ひとりでは不可能なことも、皆んなでなら可能になる。
なにしろ延べ何十人、何百人、時には何千人もの人の関わりがなければ建築は作れないのだから。

soy
出典:http://www.soylabo.net/blog/IMG_8853-.jpg
.

モチベーションを生む”不足”。

でも、こうやって空間を扱いながら、一方で僕は不足を感じるようになっていました。
その感覚は「空間」と一緒に世界を構成しているもうひとつの大きな要素「時間」についての
ある欲求から生まれている、と気付きます。

僕が「空間」を設計する時、「時間」も同時に設計しています。昼と夜では当然あかりの質も、
空間の機能や目的も変わるし、同じ日中でも季節と時間帯でコンディションは全く変わります。
太陽高度と入射角を想定して壁を立て窓を穿ち、反射率と拡散率を踏まえて材料や色を選定し、
一日を通じ、また季節を通じてその空間の質がどう変化するのかを想像します。

結果、イメージ通りの心地良い「空間」作れたとして、でもそこで重要な要素として参照した
「時間」に対しては、間接的にしか触れられていないのではないか、という疑念が残るのです。

もっと直接的に時間に触れたい。
それが僕のモチベーションになっていきました。

僕たちの世界においては、「時空」として語られるように両者は不可分だし、
片方の存在がもう片方の存在を計る媒質でもある。
でも、例え並べて語られたとしても根本的に違う存在。それこそ次元が違うのです。
時間は、空間のように直接働きかけて変形させることが出来ないし、
もし出来たとしても、それが他人と共有可能なものなのかどうか、極めて怪しい。

宇宙を通底する基本原理のようにも思えるし、それぞれ個別の感覚器によって感得される
超個人的かつ状況即応的な属性の、柔らかい尺度のようにも思える。
そんなものをドウコウしたいなんて望みは、タイムマシンをつくる無邪気な夢と同様に
不可能な挑戦なのかも知れない。

けれど、そこがいい。
自分には到底無理だと思えることに、挑み方さえ分からないようなものこそに挑みたい。
こう出来たら成功…なんて、気軽にゴールのイメージが描けないものほどやってみる価値がある。

僕の場合、「時間に触れたい」という命題を得て、モチベーションは十分に喚起された。
でも実際のところ、その命題に対する挑み方が全く分からなくて、長い時間を使ってしまいます。

迷走の末、僕がようやく掴んだ糸口が iPhoneで、そしてアプリの開発だったというわけです。
その後、多くの支援者や仲間と出会い、巻込みながら、
そうやっていま、僕たちの「PROPELa/プロペラ」に繋がって行くのですが、、
この辺りの詳しい話はまた、回を改めることにしましょう。

.

無限の可能性を拓く、「次」。

脳科学者の茂木健一郎さんもグロービスでの講演で語っています。
無限について触れた一節で、「無限というのは、数学的には『次がある』ということ」
「人間は無限そのものを手に入れることは出来ないけど、『次がある』と解って行動する限り
無限と向き合える。
」「僕も、君も、日本も、無限の可能性を持っている」のだと。
だから「次」を設定することが大事で、それは「『無理ゲー』であればあるほど良い。」
要約すると、そんな内容だったと思います。

これは勇気づけられますよね。
僕たちは無限の可能性を持っている。
そしてやっぱり、自分では無理だと思うことこそ、挑戦する意味があるということです。

そして、前出の「イメージ」は、茂木さんのいうところの「次」。
– 1.無理だと思えても、まず理想を設定する。
– 2.その理想的「イメージ『次』」を強く持つ。
– 3.そしてその「イメージ『次』」を現実にするために動く。

なんだか、茂木さんの言葉に、新たなモチベーションを注入してもらったようです。
最後に。よく言われていることですが、ここに改めて記しておきます。

イメージを現実にする唯一の方法は、実現するまで挑戦を止めないこと。

挑戦中の自らへの戒めとして。
.

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr

プロペラ日記 04:渾然たる調和、完全なる単純…としての「とうふ」?

ごめんなさい。
日記も04まで来ましたが、まだ、ちゃんとした自己紹介をさせて頂いておりませんでした。
今回はちょっと自分たちのことをお話しさせて頂きたいと思います。

僕たちチームは、TofuONE/トフワンといいます。
いま、行動アシスタントアプリ「PROPELa/プロペラ」をリリースに向けて鋭意製作中です。
いわゆる「IT」を扱う会社ですが、その本質はモノづくりの職人集団だと思っています。
モノづくりにおいて僕たちの目指すべき理想像は、実は「とうふ」です。

ん?トーフ?
そう、「とうふ」
「 豆腐:tofu = soybean curd 」です!

あの白くて四角くて柔らかいヤツ。。(笑)

tofu
出典:http://www.sagamiya-kk.co.jp/trivia/img/main.jpg

豆腐って、僕たち日本人には余りにも身近で、ありふれていて、単純なものだから、
そこに美を見出したり、いちいちその存在の凄さに気を留めたりしないわけだけれど、
人間が生み出したひとつの「プロダクト」としてみれば、
実はその在り方に、深〜い意義を見出すことが出来ます。

.

腐ってなくても「豆腐」?

本題に入る前に、ちょっと、気になることを解決しておきましょう。
豆腐って、腐っていないのに、何故「腐」なのか。

まずはその漢字をよく見てみます。
漢字は、素晴らしく良く組織されたインフォメーションデザインの典型ですから、
そのデザインに込められた情報を読み解くわけです。

  • 「广」
    广(まだれ)は、崖を利用した、半分岩に埋没した家屋(岩屋)の形を象ったもの。
    暗くひんやりした空間の特性から、岩屋は、仏像の安置所や礼拝所、納屋や倉として
    使われることが多かったようです。

  • 「府」
    上記のまだれは、実は、この文字の一部でした。府には、
    モノを詰めてしまい込む倉の意味があります。モノがびっちりとくっ付いているイメージ。

  • 「肉」
    府の下に配置かれた肉は、この倉に貯蔵されたものを示しています。
    古来中国において、倉の中で肉を熟成させるという習慣があったのかは知りませんが、
    何れにしても、「暗い岩屋の倉の中で、びっちりと詰められた肉が熟成されている、、」
    そんな景色が「腐」という、たった一文字のタイムカプセルから飛び出して来るわけです。
    インフォメーション・ヴィークル「漢字」。恐るべし、です。

つまり、「腐」の字義としては、熟成させるとか発酵させる、ということになります。
必ずしも腐っていないですね。(笑)
そして熟成されたお肉が柔らかくなることから転じて、
「やわらかい、ぶよぶよした、寄せて固めた」等の状態を表す言葉となりました。
日本語でいう「腐る」という意味も無いわけではないようですが、
こんな成立ちを知ればむしろ、腐るという狭い用法の方がマイナーなのだと理解出来ます。

漢字は、その長い歴史の中で意味が狭められ、歪曲されることもある。
この偉大なインフォメーションデザインのユーザーである僕たちは、
古代のデザイナー達にもっと敬意を払い、その運用にもう少し気を配るべきだと思うのです。
 
どうでしょう?
これで「腐」という文字に対する不当なマイナスイメージを、少しは拭えたでしょうか?
つまり「豆腐」は、「やわらかい豆を寄せて固めたもの」という意味だったんですね。
  
まずは、おとうふさんの名誉のために。

.

哲人の遺した言葉

さて、では本題に入ります。
プロダクトとしての豆腐、その深い存在意義について。

僕が尊敬する20世紀の建築家に、白井晟一(1905〜1983)という人がいます。
「象徴的な形態と光に対する独特な感性(Wikipedia)」の持ち主で、
モダニズム建築の主流には迎合しない孤高の人でした。

今も見ることができる建築作品として、
松濤美術館や、親和銀行(本店と複数の支店)、麻布台に聳えるノアビルなどが有名です。

shinwa
shirai
出典:http://stat.ameba.jp/user_images/20120429/14/craftmanship/79/1f/j/o0389058711942571256.jpg
出典:http://img.allabout.co.jp/gm/article/374102/1.jpg

若い頃から美学や哲学に傾倒した彼は、シベリア経由で渡欧しベルリン大学で哲学を修得。
それゆえ、その言論や建築作品は、哲学的含蓄を濃く映しています。

そんな白井先生が、日常の思考を綴った「無窓」(晶文社) というエッセイ集があり、
その中に「豆腐」についても一節を当てて、独特の素晴らしい考察を遺されています。

これからイメージして頂くのは、中国の豆腐でなはく、より柔らかい日本の豆腐。
しかも木綿よりも、絹ごしのお豆腐がいいです。
では、僕たちに豆腐というものの存在の意義を改めて気付かせてくれる、
彼の観察の一端をご紹介しましょう。

.

  『…これ以外のものをゆるさない形と、色と、物理的性質に到達し、
  いや、人間のために満足な「用」となって奉仕するものを完全というならば、
  われわれは豆腐において、具体的な生活の目的のために具現された、
  ひとつの「完全なるもの」を見ることができる

  (中略)
  …あらゆる部分が弁別できないほど、緊密に結合して一つの全体のうちにとけこみ、
  渾然たる調和に統一されている、そういう完全なる単純
… 
  白井晟一 (「豆腐」より抜粋 ) 』

.

どうですか、この言いっぷり!
つまりは「用」としての純粋さや完成度と「常」としての身近さや透明度が、ハンパないと。

これは、本当に凄いことなのです。
あまりにも身近で、ありふれていて、単純で、誰もその存在を特別扱いしたりしないのに、
必要十分な機能を備え、日本中で毎日のように求められ、きちんとそれに応えて行く。
しかも何百年もの永きに渡って。

自分もいつかそんなモノをつくってみたい… そう思わずにはいられません。
プロダクトとしての豆腐が到達しているその高みを、いま、僕たちも目指そうとしています。

そんなわけで、恐れ多くもそんなお豆腐様にあやかって、
自分たちの会社の名前に「Tofu」を入れたという次第です。

.

もうひとつの願い

そしてさらに(!)

実は、Tofuというのは、Time Oriented Functional Utility の略でもあります。
つまり時間を志向した機能的で有益なもの。

僕たちとて、モノづくりが出来れば何でも良いわけでもなくて、
時間を主題に、人の役に立つ道具」を作りたい、という強い思いがあるんです!!

すると次には、「なんで時間なの?」とか、
いろんな表現手段があるのに、なんで「アプリ」だったの?とか、
「そういえば、ONEの説明は聞いてないよ!」とか言いたくなっちゃいますか?

う〜ん、でも長くなってしまうので、その話はまた後日。。

この記事を共有するShare on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on LinkedInShare on Tumblr