前回、カレンダーとスケジューラーの違いに触れました。
カレンダーからスケジューラーへの機能の変化はユーザーの欲望に沿った進化であって
これからもまた、別の機能と相応しい呼び名を生みだすだろうと。
僕たちは発想の源としての言葉の力を信じているところがあって、本来の意味への探索や
名付けという行為をとても大切に思っています。
今回は、ひとつの言葉をどのようにプロダクションへ繋げるのか、簡単な例をご紹介します。
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言葉からの着想。
例えば、カレンダーというものを主題にする場合。
僕らがよく知っていると思っている日常の言葉であっても、いや、そうであればむしろ、
改めて辞書を繰ってみるのは面白い。意外な発見や、認識を新たにすること度々です。
ということで、「カレンダー」という言葉が本来指し示しているものを探ってみましょう。
まずは語源ですね。
その語源では、kalendae というラテン語に行き当たります。
古代ローマでは、夕方、月が見えると「月が見えた!」と叫んだそうです。(本当か?笑)
毎夜叫んでいたという説があるくらいですから、新月明けにはとりわけ大きく叫んだのかも。
なので「叫ぶ」の「カロ/カレンデ」から「カレンダエ」という言葉になったと言われます。
これは「毎月最初の日」という意味です。
太陰太陽暦を含む太陰暦において、月の始まる日といえば、朔(さく/new moon)。
”現代的に言えば”新月ですね。
月と太陽の視黄経が等しくなる状態またその時刻のことで、実際には瞬間的な現象ですが
それを含む日のことを朔日と言います。
なぜ、”現代的に…”と言ったかというと、本来は月の見えなくなる朔(暗月)の後、
初めて見える細〜い月を新月と呼んでいたから。
古代ローマ人は、ここで「月が見えたぞ!」ととりわけ大きく叫んだわけです。
現代の新月と呼ばれる状態とズレていますね。
そういえば子供の頃、月が無いのにどうして新月と呼ぶのだろうと疑問に思っていたので、
本来の使い方のほうだったら納得出来たのに!と、ローマ人に共感して叫びたくなります。
ローマでは叫んでから逆算し、月齢の起点を計っていたようですが。
出典:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tarotsakurako/20141112/20141112214846.jpg
言葉からの逍遥。
ちょっと横道に逸れますが、この月の消滅と再生のイメージについては、
絵本の魔術師、エリック・カールの作品に描かれている世界にも触れておきましょう。
世界的ベストセラー絵本「はらぺこあおむし」の作者が、娘に贈った、
夜空を見上げるステキなお話し。
「パパ、お月さまとって!」(原題:Papa, Please Get the Moon for Me)
お月さまと遊びたいというモニカのために、パパは長い長い梯子を月に掛けて持ち帰る。
大喜びで月と遊ぶモニカだけど、そのうち、月が痩せて来て、、ついに消えてしまう。
けれど、寂しい思いをしているモニカの頭上に、再び、、
というようなストーリーで、日本では偕成社から出版されています。
紙面の大きさの限界を破る仕掛けが秀逸で、梯子の長さや、空の高さや、月の大きさを
見事に表現しています。子どもがビックリするような月の巨大さを見せたあと、
それがだんだん小さくなっていく様子がドラマチックに、ちょっと切なく描かれていて。
独特のコラージュ、色彩も美しい絵本で、僕も自分の子どもに何度も読んで聞かせました。
なにしろ「パパ」名指しなので。(笑)
出典:http://quesera230.exblog.jp/i15/
おっと、朔日のことでした。。
日本ではどうだったか。
調べてみると日本では、システマティックな暦が運用される以前は、
農耕のために自然の移り変わりを読む、大らかな自然暦を使っていたようです。
そもそも「こよみ」という言葉も、ふつか、みっか、よっかという日を意味する「か」から、
日(か)を数えることを「かよみ」といったので、転じて「こよみ」になったそう。
でも、月の始まる日は特別に「ひとひ」と呼んでいて、
それもいつしか「月立ち(つきたち/ついたち)」と呼ぶようになった。
正式な暦が百済から伝えられたのは6世紀中頃。
そうして漢語として移入された朔日を「ついたち」と訓読みするようになったらしい。
そう、「ついたち」って、「月立ち」だったんですね。
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言葉への帰結。
ひとつの言葉を巡って思考がローマから絵本から古代日本へ廻り道をしましたが、、
ここで何が言いたいかといえば、
結局、「カレンダー」という言葉にとっては、月の単位がとても重要であるということ。
年単位のものも、週単位のものも、日めくりもありますが、本来的には月単位。
もしくは、新月から満月を経てまた新月へ戻る周期を意識した使用であったり、
新月明けに叫びたくなるような衝動を孕むものであれば、言葉と本来の意味が合致して、
力を得るような気がする、、ということです。
その音の響きや、それらが引き連れて来るイメージの群れまで含めて大袈裟に言うと、
いわゆる「言霊」っていうやつですね。
だから例えば、僕たちのアプリPROPELaの中に設定する、日程を扱うような機能に対して、
それをカレンダーと呼ぶのか、あるいはスケジューラと呼ぶのかということや、
その機能が表現するものの根底にどんな概念を置いておくべきか、などということを、
上記のような考察や連想から、思考を巡らせて決定している、、というお話しでした。
言葉って面白いですね。
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